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平成13年6月10日から番目のお客様です

 
             3大図書館(名簿・FAX・家系図)を
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=第一話
                     会長 田村武男

アイデアの旅立ち

  私にも、かつてサラリーマンの時代がありました。
 
 今となっては、それも遠い昔のことになりますが、それがひょんなことから独立すつことになってしまったのですから、人生というものはわからないものです。

 運命というのものは不思議なもので、なにかのきっかけやはずみで、その人の意思とは無関係に、思いもかけない方向に流れを変えるものですが、私の場合もその例外ではなったようです。

 私自身、もともと平凡以下のサラリーマンでしたので、独立なんて大それたことは夢にも考えていませんでした。それにもかかわらず、実に数回も独立する経験を持ってしまたのです。数回も経験したということは、

3度失敗してしまったからからです。

 失敗といっても傷は浅く、有り金を全部はたくだけのことで、別段人に迷惑をかけるでもなく、またその経験はちっとも我が身につくほどのものでもありませんでした。


サラリーマン劣等性

 
 あれは、ちょうど昭和27年頃のことです。それまで勤めていた鉄鋼関係の会社を辞めて、出版関係への転身をはかろうとしました。元来、私は新聞記者志望だったのですが、ついにその方面の志を得ることなく,鉄鋼関係の営業畑に身を置く羽目となってしまったのです。

 これがそもそも失敗の始まりで、毎日毎日が面白くなく、遅刻は常習犯だし、夜な夜な友人を誘っては酒を飲み歩き、会社は上役の悪口ばかりの日が続きました。こんなていたらくですから、ボーナスは全社員の最低率で、平均が60%のところ、わたしだけは45%という実に屈辱的な額だったのです。

 ちょっと古株の女の子より少なく、これがまた頭にきて、ますます仕事に精がでなくなる。会社のアラも目についてくる。が、さりとて、これを上司に直言するほとの勇気もない。内攻する不満は、この会社に入社しないで、第一志望の新聞記者になっていたら、恐らく私の運命は今のものとはまったく違った方向に進んででいたであろうことは間違いない事実です。

 朝日か毎日か読売かの、いずれかの新聞社の記者になりたくてたまらなかったのです。そして恐らくいずかの新聞社に入社していらら、私は独立することもなく、その仕事に専念していたことと思います。今にして思うと、そのどちらが良かったかは、もとより神ならぬ身の知る由もありませんが、現在の時点から遡ってどちらかを選べといわれたら、私は躊躇することなく、現在の立場を断然選びます。

 ともあれ。こんな精神状態だったものですから、しょせん長続きするはずはありません。私は上司や同僚や家族の反対を押し切って、その鉄鋼関係の会社をあっさり辞めてしまったのです。

                     

失業の谷底へまっしぐら…
 
 在職中に、次の転職の準備をするというのがなんとなく男らしくにように思えて、無鉄砲に飛び出しはしましたが、ちょうどその頃は戦後不況の真っ最中で、、まともに月給を払ってくれる会社はほとんど皆無に近いありさまでした。

 天下はれてフリーになった私は、早速翌日から新聞の求人欄を見ては、出版関係の会社を片っ端から訪ねてまわりました。しかし未経験の私を、どこの会社もむかえようとしてはくれませんでした。

 ついには私は、月給は要らないから暫く使ってみてはくれないかとさえ申し出たのですが、かえって不審に思われて、最後の希望の糸さえぷっつりと切れてしまったのです。そして失業保険で食いつなぎながら、給付金をもらうと、あるときはパチンコで憂さを晴らし、またあるときは安酒場で焼酎を引っかけては、重い足を引きずって中野のアパートへ帰るのでした。

 ある寒い冬の日のことでした。

 一週間分の失業保険金をもらって、まっすぐ家に帰ればいいものを、また例によって新宿のパチンコ屋立ち寄りました。最初ちょっと調子が良かったものですから、つい図に乗ってパチン・パチンとやっているうちに、すっかり持ち金をはたいてしまいました。

 すっかり頭に来ていた私は、オーバーを近所の質屋に入れてその金で、またやり始めました。しかしその金をするのにものの20分もかかりませんでした。その頃、ちょうど連雀式というのが流行していましたから、早いのなんのといったらありません。



パチンコ師を志す

 
 すっかり失意のどん底に叩きおとされた感じで、俺はもうダメな男なんだ、明日から一体どうしたらいいんだろうと、半ば自暴自棄で家まで辿りついたこともあいrました。もっともこうしてパチンコに熱中したのも無理からぬ理由もあったのです。

 それは前に申し述べたように、その頃は不景気ですから、俺はひとつパチンコのプロになって身をたてえやろうと思っていたことも事実です。しかしパチンコ師がそんなに甘いものでないことは皆さまもとっくにご存知のはず。もちろん私もそれを承知のうえで、なおかつパチンコに取りつかれたのです。

 こんな失意のどん底にありながらも、私もどこか意地っぱりのところがあったようで、、決した以前の会社へ頭を下げるようなことはありませんでした。周囲の者も見かねて、そうしたことを勧めてくれるのですが、私のプライドがどうしても許さなかったのです。

 新聞の求人欄にも、隅から隅まで目を通すのですが、そのほとんどは全く固定給ののない歩合のセールスばかりです。ところが私はセールスが大の苦手で、てんからそんなものは俺の生に合わないと決め込んでいるし、また下手に動き回っても交通費だけ全損になるというのが見えすいたオチであることを誰よりも私自身がよく知っていました。

 

屑屋の試験に見事落第
 
 固定給を、少しでも固定給をくれる会社を私はどんなに待ち望んだことでしょう。もはや新聞記者も、雑誌記者もあったものではありません。どんな会社でも、どんな業種でもよかったのです。どんな会社でも、そんな業種でもよかったのです。その会社が固定給を出してくれさえすれば。私は満足だったのです。

 ある朝、求人欄の片隅にパッと私の目をひいた数行がありました。それは東中野にある屑屋の求人でした。ようしこれなら間違いなく固定給をくれるだろうと、私は喜び勇んでその屑屋を訪ねました。だが、そこの親爺さんは、私の顔を見るなりポツリといいました。

 「あなたは向かないよ」と。

 屑屋は、人生最低の職業のように思いこんでいた私は、その就職にさえあっさろ失敗してしまったのです。

 
 

警察新聞で運命の人物と邂逅



そうこうするうちに、また私は“警察新聞の記者募集”という広告を目にしました。矢張りそんな中でも、どうしても記者志望が頭にあったものですから、そうした関係の求人は真っ先にチェックしていました.。

 なんだか知らないけれど,警察新聞なんて変わった新聞もあるもだなァと思いながら,私は新宿三光町の裏通りのなおその奥にある一軒のしもた屋の二階に,やっと尋ね宛てました..
.六畳の部屋に机が一つあるだけで,四十年配のその経営者が座ってていました。私は,これが夢にまで描いた新聞社かと思うと少なからずがっかりしました。.朝毎読とまでいかなくても、もう少し格好がついていて欲しかったのです.


 その経営者の話を聞くと、結局は固定給なしで、警察の威を借りて(警察とは全然無関係で、ただその名前だけをオドシ利用しようという類).広告を集めようという新聞です.従って新聞など発行する意思まるでなく、ただ広告を集めれば、いや金を集まればそれでよかったのです.分け前は経営者が六分で私が四分です。

 全くひどい新聞もあったものです。そのときの応募者は、それで四、五人はいたように記憶しています。私は驚きながらも、とにかくやることもないので、その日は紹介された一人の先輩と一緒に近所の商店を歩き回りました。

 その先輩なる人物も、道中歩きながら話してみると意外のの好人物で、結局その人柄の良さにひかれ、その翌日も出社? しました。そこで私は,やはり新人の年配者を引き合わされ,今日からお前たち二人で廻るようにとしじされました。

 その新人というのが、年の頃五十五歳前後で,立派なあごひげを蓄えたいかめしい人物。こうして私は最初の運命の人物と運命的な出会いをしたのです。
                                     

                                                                                               


豪傑氏と意気投合す



 
その男は、蒼田荻外と名乗っていましたが、もちろん本名ではなかったでしょう。なんでも、その昔、頭山満翁のところに出入りしていたとか、そのようなことを話していましたが、いかにも国士然とした人物であったように記憶しています。

 現代ではあまり見あたらない人物ですが、当時はまでそうした人間がいくらかゴロゴロしていたのです。ところが話してみると、意外にこれが好人物で、しかも住居も近く、急にこの人に親しみを感じたのです。

 さて一緒に新宿周辺の商店を廻ってみましたが、どこへいっても剣もホロロの挨拶で、一円の収入にもありつけません。

 ところが帰ってみると、その警察新聞の主幹と名乗る人物は、さすが経営者だけのことはあって、申込書なる紙切れに、はっきりと印が押されているではないですか。これだけ実力の差を歴然と見せつけられては。さすがに我々もグーの音もでません。


 いまの言葉でいえばスポンサーで、その頃はまだそうしたハイカラな言葉はなかったようですが、どこをどのように廻って、どのような話をしたのか分かりませんが、結構、その主幹なる人物は収入をあげているのです。

 私たちは半ばあきれながらも、半ば羨ましく思ったのも事実です。なにしろ、固定給の全くない歩合オンリーの私たちの身分だったのですから。帰途私たち、つまり私と青田荻外なる人物とは、新宿駅の近く安飲み屋に立ち寄りました。

 ところが一見この豪傑そうな人物が、酒の方は全くダメなのです。恐らく私だけがオダをあげたのでしょうが、どこか意気投合したのでしょう。

 その辺のところは、もう四十年前のことで定かではないのですが、「こんなチョロイ商売もあるんだから、俺たち一緒に組んで、新聞を出してみようや」ということにどうやら相成ったことだけは確かです。



何処を廻っても剣もホロロ



 数日後、私は彼の家を訪ねました。まだ焼け跡そのままに近いような上高田に、彼のバラック建ての家がありました。ノックすると娘さんが出てきました。

 娘さんといっても私と同年位で、なんとなく品のよい、物静かなお嬢さんでした。私はしぎも好感を抱くとともに、その親父さんなる人物に、前にもまして好印象を持つようになりました。

 なにしろ私もまだ未婚の、血の気の多い年頃だったのですから、無理もないことです。聞いてみると、奥さんを失い、現在はその娘さんと二人暮らしということです。

 そのとき、どんな話をしたかさっぱり憶えていませんが、彼が日本刀を私に見せてくれたことだけは今でも記憶に鮮やかです。

 「この刀は、私の家に代々伝わる銘刀で」と前置きして、北海道の地方新聞に載った記事を見せてくれました。そうです。彼の出身地は北海道だったのです。

 恐らくこのとき、どうして資金をつくるかとか、どんな名前の新聞がいいだろうか、といったことを、私は多少、その娘さんが隣室で聞いているのを意識しながら、遅くまで話し合ったことと思います。

 前章でも述べましたように、私のような若輩が、とても独立してことを構えるなどとは夢にも思っていなかったのですが、そのとき私はこの男をかつぎ上げようと考えたのです。

 年頃といい、人品といい、社長としてもおかしくないではないかと思ったのです。それになによりも、この人物が「悪」ではないと直感したのです。


 

日本刀携え知人宅を訪問



 数日後私は、鉄鋼界で知り合った、多少私のことをかわいがってくれた、さる知人を江戸川区小松川の宅を訪ねました。そのとき私は手に、かの青田氏伝家の宝刀なる日本刀を携えて、午前7時頃門を叩いたのです。

 なぜ私が日本刀を手にして訪問したのか。もちろん、押入り強盗のつもりではありません。私はその数日前、青田氏室で夜遅くまで話したあと自宅に帰り、いろいろ考え込みました。そのとき、私の頭にひらめいたのは、井上靖氏の小説”闘牛”でした。

 あの小説のなかで、ある人物が金をつくるときに、担保もなく、思いあまって生命保険に加入し、その証書を持って、「私の生命を預けるから、どうか金を貸してくれ」といった科白です。私はとっさに、この生命保険の証書の代わりに、伝家の宝刀にすりかえたのです。

 早朝の訪問に、相手のその知人は多少不機嫌な顔をして出てきました。

 「なァんだ、こんな朝早くから…」
 
 私は大地にひれ伏さんばかりの気持ちで、「実はここにあるのは、私の家に代々伝わる銘刀ですが、これを担保にして、拾万円ばかり貸してはもらえないでしょうか」といったのです。

 今から思えば顔から火のでるような、キザな科白ですが、そのときの私は真剣そのもでした。ウソをつくことの苦手な私にとって、後にも先にもないウソの伝家の宝刀でした。

 しかし結果的には、この作戦は成功したようで、私は7万円の借金に見事ありつくことになったのです。

                                                

パン工場の奥が事務所



 と同時にこのことは,青田氏の信頼をかちうることになり、私たちは直ちに貸事務所を探すことになりました。

 私は鬼の首でもとったような気持ちで、今にも日本一の新聞社の社長になったつもりでいたのですから、まさに汗顔の至りというところです。

 その頃は事務所といっても鉄筋ビルはなく、敷金も保証金も非常に安かったので、7万円もあれば充分だったのです。

 日ならずして私たちは、上高田のある製パン工場の、奥にあいている事務所があるのを見つけて、ここで産声をあげることになったのです。

 ニ間あったことだけは憶えていますが、家賃がいくらで、敷金がどうであったかは今になっては、さっぱり記憶にないのです。ともあれ事務所だけは持つことになったのです。仕事の計画もなにもあったものではありません。とにかく事務所がなくて仕事にならないと当時考えたのでしょう。

 しかし事務所を持ってみると、急になんとかしなければ、という気持ちが不思議と湧いてくるものです。でも、まるっきり当てがないのです。なにしろ二人とも、新聞については素人だし、広告をとれば丸儲けになるといった程度の、まことに漠たる当てしかなかったのですから。

 そこで私たちは,まず新聞記者のベテランを募集しようということになったのです。早速、朝日新聞の求人欄に数行の記者と女事務員の募集広告を出しました。

 今思えば夢のような話ですが、僅か数行の広告で、なんと300人余りの応募者があったのです。延々長蛇の列を前にして、私は得意満面でした。本当に選り取り見どりだったのです。

 幸いにも、そのなかに元朝日新聞の記者がいました。履歴書の字もなかなか枯れているし、2人の意見も一致しました。「よろしい、なにがなんでも、この人物を我々の同志として入れよう」ということになったのです。

 その夜私たちは、遅くまで話し合いました。近所の酒屋さんから焼酎を買って来て、飲みながら話しながら、恐らくこの階段は夜半まで続いたのだと思います。

 ところがこの、朝日新聞の記者なる人物は(残念ながら今ではその名前を失念してしまいましたので悪しからずご了承ください)呑めども、呑めども、なお底知らぬ大酒飲みで、意気ますます上がったことだけは事実です。
                                            

 

私の肩書きは「情報局長次長」



 まるで三人で天下を取ったような、意気軒高たるものでした。かくし得た結論は、新聞の題号は「都民新報」とするということと、従って社名は都民新報社とするということだったのです。

 資金は主としてお袋に泣きついて私が出したのですが、年齢からいっても、経歴からいっても、主幹には青田荻外氏、編集局長には元朝日新聞社の記者氏、そして私は、情報局次長なる肩書きをつけてスタートしたのです。

 次長とつけたのは、私がまだ若くて自信もなかったことと、次長とあるからにはその上の局長なる人物が居るであろうと、第三者は見てくれるだろうという、多分にハッタリもあったのです。

 私は希望に胸ふくらんで、その夜はいつまでも寝つかれませんでした。


賀陽宮殿下の担ぎ出し失敗



 私たちはそこで、誰か有名な人を担ぎあげようではないかということにないました。しかい別に誰といった当てのある話ではありません。

 金もない、力もない、無名の新聞では誰からも信用されないから、そうした方がよかろうという程度の話から始まったのですが、空理空論というものはトントン拍子に進むもので、私たちの白羽の矢を皇族にたてることにしました。

 そのとき、誰が、どこからのつてを求めてきたのか、日ならずして私たちは、白金台方面にあった賀陽宮家を訪ねたのです。

 まだ終戦後のこととて、敷地こそは広かったけれど、宮様邸はまことにお粗末な、バラック建てに毛の生えた程度の、その当時どこにでもあった庶民住宅と変わりないたたずまいだったことが、今でも私の脳裏にはっきりとやきついています。

 恐らく手土産ひとつ持たないで訪問したであろう私たちを、とても丁重に迎え入れてお茶などもてなされことを、つい昨日の出来事のように思い出すのです。しかし私たちの非常識な申し出に、宮様が応じられるはずもありません。今から思えば全く汗顔ものですが、でもそのときは真剣だったのです。



右翼と左翼の対決を企画



 都民新聞の名誉総裁担ぎ出しに失敗した私たちは、次に討論会をやろうではないかということに衆議一決しました。なにしろ、まだ一回も新聞を出していないのですから、というより、その実は、なにか話題になりそうなテーマを特集したり、広告のとりやすいネタ新聞をつくりたかったというのが本音だったのです。

 私たちが選んだテーマは”右翼か左翼か”ということで、早速青田主幹の筆で趣意書を作成しました。討論会の場所は中野区の区民会館の予定で中野区と杉並区に在住のいろんな有名人を訪ねました。

 右翼の人物としては、結盟団と五・一五事件の三上卓元海軍大尉に出席を要請に行きました。なんでも材木屋の2階のような、ちょっと薄暗い部屋で対面したのですが、やや痩身の背筋をキリッと伸ばした、眼光の異様に鋭かったことを記憶しています。

 しかしここでも、まんまと断られ、右翼と左翼の大物の対決を予定していた座談会は、次第に尻すぼみとなってしまいました。

 名前は伏せますが、早朝ある代議士を訪ねたこともあります。3人が雁首を揃え、豪壮なその代議士の宅を訪ねましたが、広い応接間にはすでに10人余の訪問者が待っていました。

 待つこと暫し、やがて7時過ぎに、その代議士先生は、朝風呂上がりの血色のいい姿を現わしました。田中元総理ではないが、”やァ、やァ”といって、皆に千円ずつくれたことだけは憶えているのですが、そのときどんな話をしたかさっぱり記憶にないし、もちろん討論会の出席はいとも簡単に断られたようです。

                                            


創刊号だけ発行してすぐ解散



 かくして最終的に出席したのは、地元の商店主とか、弁護士とかいった程度で、とても大向こうをうならせるような討論会にはならなかったlことだけは事実です。

 センセーショナルなトップ記事を振りかざして、大活躍をするはずだった情報局次長は、その間ほとんどなすすべもなく、夜になっては3人でどこかの安飲み屋で、夢物語のようなことをただしゃべっているだけでした。

 それでも、元朝日新聞の記者氏は、その座談会の記事をまとめ、いよいよ都民新聞の創刊号を出すところまでこぎつけました。しかし、そのとき初めて知ったのですが、大新聞社の記者は、記事を書くことは知っていても、それを割り付けることはできないのです。

 結局は印刷屋任せということで、タブロイド2頁の新聞を何千部か刷りましたが、所詮広告のとれるほどハッタリの利いたものでなく、収入のないままに約3か月位うろうろして、この都民新聞社は実にあっけなく解散してしまったのです。

 なお、この討論会に出席の地元の商店主というのが、今をときめく丸井の社長の父上であり、弁護士というのが後の弁護士会の会長になった人なのです。

 もちろん当時そんなことになろうとは夢にも思っていませんでしたが、人の運などといったことはそんなことかもしれません。

                           
                                (この編おわり)


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